2007年4月12日木曜日

文字という媒体を通して会話するということ

会話、というのは一般的には相手の表情、声の性質等から相手の感情を汲み取りつつ進めていくものだとは思う。
しかし広義で考えれば紙を媒体とし、文字によって意思を伝え合う手紙というのも、立派な会話になるのかもしれない。

 どちらにせよ、「会話」というものは「意思の疎通」があって成立するものではなかろうか。

文字による会話、はアナログな紙によるものならば、その紙面に広がる手によってその文を記した時点での相手の感情を汲み取ることもできるだろう。
(最も、器械打ちした文もあるだろうから、その時は難しいだろうが。)
とはいえ、その文が紙を媒体としたものであろうが、電子を媒体したものであろうが。
差出人の発信と、受取人の受信には時間の差ができるのが通常だ。

 だが、ここに、送り手と受け取り手の間に時間差が存在しない文字による会話がある。そう、「チャット」と呼ばれるものだ。



チャット、にも種類が幾つかあるだろう。
昔からあるのはIRC等クライアントを利用したものだろうか。
他にはインスタント・メッセンジャー(IM)、WEBチャット(CGIであったり、Javaであったり)があるだろう。

 さて、手書きですら文字から書き手の感情を察するのは難しい。
それが機械によるものならば尚更だ。
こと手紙ならば、受け手は書き手の意思を紙面から汲み取るために時間を割くことができる。
だが、このチャットというのは厄介な事に字面から相手の意思を時間をかけ汲み取ろうとすると「押し黙る」事になる。
かといって、相手の意図を読み取れぬまま言葉を返せば「会話」など成立しない。
 故に、チャットというのはいかにして文字から相手の意図を正確に汲み取るか、文字という媒体により相手に自分の意図を正確に伝えるか、という技術が必要となってくる。

簡易に考えるならば、直接文字により感情を示すのが相手に己の意思、意図、感情を示すことができるだろう。
その科白を吐く己が笑っている(愉しんでいる)のならば、「笑」の文字をつければ良い。
困っているならば「困」をつければよい。悲しいのならば「泣」「涙」と付ければ良い。
受け取り手は、この感情を示す語を軽く流さないことだ。特に負の感情であるものは。
それは相手が明確に「私は不快である」ことを示している印であり、当該の話題はそこで避けるの良いだろう。
(気心の知れた仲ならば話も違うであろうが、チャットというのは−特にWEBチャットは−不特定多数の”知らない誰か”が同席する場だ。)
また、ネットゲームの出身者の中には「私は笑いながらこの発言をしている」と示す為に語尾に「w」を付ける。
これは笑いの頭文字とも、口の形とも言われるが定かではない。
が、明らかなのは、これが「私は笑っている。」という事を示す印だということだ。
故に、この符号を知るもの同士が使用する分には差支えないだろう。

 だが、この「w」を重ねる、というのはどういう事だろうか?

 「私は大笑いしています。」と宣言しているのだろうか?
だが、中にはこれを重ねるどころか画面の端まで届きそうなほどに多数用いるものもいる。
そんなに笑い転げているのだろうか?
場面によってはそういうこともあるだろう。

少し想像してみて欲しい。
その話題が、本来は笑い飛ばせるようなものではないはずのものを、科白の端々に「私は笑っている」と示す印を用いるものと「会話をしている」状況を。
チャットという媒体を通しているので実感がないかもしれないが、これを対面の会話に置き換えるならば深刻な話題であるにも係らず薄ら笑いを終始浮かべる相手と会話をしているという事ではないだろうか。
少なくとも私はそんな相手と「会話」をしたくはない。

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